50代オヤジ HSP の備忘録

HSS型HSPの林 翔と申します。50代オヤジです。めったに更新しない、をモットーにHSP備忘録をつくることにしました。よろしくお願いいたします。

会社生活の振り返り(4:完)【うつ再発のいま】

<転職3社目のこと>

大阪の3人は全員が自分の年上だった。

うち一人は私の入社にあわせるように退職していった。引継ぎくらいあってもいいけど、まあいいやと思ったのを覚えている。

 

転職試験の面接官は自分の上司だった。

あっという間に1年が過ぎた。

バリバリの外資系だったが、忘年会はあった。

 

上司「どうだった~♪この1年、大変だった~?」

私「はい、大変でした…」

上司「面接の時、大変だよっていったよね~♬思ったとおりだったかな~♫」

私「想像をはるかに超えて大変でした…」

 

でも心地よかった。

 

大阪の事務所から東京に異動した。

管理職は向いていないと思ったが部下ができてしまった。

半分は年上の部下だったが、いい関係を保てた。

 

 

<転職4社目で今の会社に>

また、転機が来た。

2社目の同僚が偉くなっており、ヘッドハンティングに来た。

その人とは私が2社目入社当時から数年間同じ案件に携わった人であった。

 

その人もまた大阪から東京に異動していたみたいで、私を買ってくれていた。

それが嬉しすぎて、ツラかった過去のことをすっかり忘れてしまっていた。

必要とされることだけで入った。後で気づいたが勘違いだった。

 

非管理職として入社した。

メーカーでの経験を活かせると思ったが、活かす場を与えられずくすぶりながらの仕事はものすごく辛い。

 

  • 案件①②若いメンバーの世話をしながら自分の担当も回した。
  • 案件③これまで4人で回していた案件を1人で回した。Globalと日本のリーダーがそれぞれ2人も代わった。
  • 案件④派遣社員が半分以上の案件のとりまとめ。ここも毎年リーダーが変わった
  • 案件⑤極端に若いメンバーが多い案件。

 

やはり、日々だましだまし来た感じだ。

 

2012年に入社、2020年でうつ病再発。治療中である。

会社生活の振り返り(3)【復職と2回目の転職決意】

あれだけ苦しんだうつ病であったが、「これ以上休んだら脳みそが腐る」と思うまでに快復し、復職した

 

元の部門ではなく、サポートチームへ異動されていた。

しかも非管理職への降格というおまけ付きで。

 

さらに衝撃的なことを知った。

休職中にチームメンバー(部下)が11人も辞めていた。

なるほど、自分は管理職失格なんだな、と思った。

 

 

若手11人が会社を辞めてしまったのは私のせいだ。

…という想いもあったが、自分は精一杯やったつもりだ。

なので、自分を責めるのはやめにした。

この悔しさを新しい業務を覚えるためのエネルギーに昇華すると決めた。

1年間だけ頑張ろう、と。

 

決意どおり仕事は覚えたが、この1年は退屈だった。

山のように契約書を読んだことは、いつかどこかで役に立つだろう。転職の手土産になるかな程度。

それよりも、いろいろな案件のリーダーたちと接触する機会があり勉強になった。

 

自分みたいに部下の話を聞き過ぎる仕事をする人なんていない、という印象だった。

ドライと言うかメンバーとの接点が少なすぎない?それでいいのか?と冷めながらも思った。

 

***

 

さあ、2回目の転職だ。

35を越えての転職は難しいと思ったが、案外そうでもなかった。

 

創立ほやほやのベンチャーから大企業まで各社を受けたがメーカーにこだわることにした。

間もなくある得意分野を持つメーカーに決まった。

 

面接官はぜひとも即戦力が欲しい、大変だろうけど、大阪にいる3人のまとめ役もしてほしい、と言ってくれた。

業務はうつ発症前と同じように人と会う仕事。嬉しかった。丁寧に引き継いで辞めることにした。

会社生活の振り返り(2)【うつ病治療】

うつ病

感情をどこかへ忘れたようだった。

脳みそもぶっ壊れていた。

2択でも選ぶことができない。

あと、ご飯の味がしなくなったのは覚えている。

どうやって調べたのかは覚えてないが、とにかく妻に連れられ自宅から電車で2駅程度にある病院の精神科の門をたたいた。

 

 

柔らかい口調と表情の先生からすぐにうつ病の診断が下った。

なぜか安心する自分がいた。涙が出た気がする。担当医は強制的に休め、だらけているんじゃないかと思うくらいに休め、と言ってくれた。

妻も毎回ほぼ1日かけての通院(時間予約がなく、診察に時間を要する)につきあってくれた。

 

 

薬も良く効いたようで、先生にいわれたとおり順調に副作用が出たが、遅れて主作用も出てくれた。

抗うつ剤は効果が現れるのに時間がかかり、副作用が先に出ることがあるそう。

時を待たず、抗うつ薬は徐々に減量されていった。

 

 

診断書に記載された休職期間を待たずとして気分はすこぶる良くなってきた。

先生に状態を説明した時にこう言われた。

「実は今飲んでいる用量では、薬効はないと思われます。もう治っていると思います。最後にお守りを持って帰ってください」

 

 

処方箋には用法用量の箇所には本当に「お守りです」と書かれてあった。

最後まで寄り添ってくれる先生だった。今でもフルネームで覚えている。

3か月で復職できたのは先生と妻のお蔭だ。間違いない。

会社生活の振り返り(1)【就職からうつ病発症まで】

最初の会社、九州にある小さなメーカーの研究開発職。

就活で100社以上とコンタクトをとってだめなところをやっと拾ってもらったので今でも感謝している。

農家の息子も多くて農繁期には会社よりお米優先というのんびりしたところ。

副業を認めてなかったのにと思ったが会社の方が副業なのはいいらしい。

 

またその地域がムラ社会でちょっと息苦しかったのも正直ある。

やりがいはあったが案件が小さく、こんなところで埋もれたくないって根拠のない自信があった20代。

給料安いから辞めますって言っちゃった。給料で辞めて成功するヤツはいないと説教されたので退職を固く決意したな。

 

 ***

おかげで新しい会社(メーカーではないが同じ業種)ではめちゃくちゃ頑張れた。

入社早々にデカい案件を担当させてもらい、必死に働いた。程なく前の会社の倍の給料を貰えるようになった。

会社も昇給、昇進という蜜とあわせて仕事上乗せという鞭を与えてくれた。

 

人というものはどんどん欲が出てくるものだ。

来る仕事すべてを受けてそれなりに結果を残していった。少々目立ってしまい、その内、困った案件ばかり来るようになった。例えば、誰かが頓挫させた案件の立て直し的なやつ。

言い忘れたが私は大阪で勤務していた。

 

その案件のチームは東京本社、札幌、仙台、大阪、名古屋、広島、福岡から構成されておりメンバーの不満も一緒に引き受けてしまった。

今でこそバカだったなと思うが、相談事をひとりずつ丁寧に聞いてしまっていた。

相談ばかりに時間を費やすために案件を回していく時間が足りなくなり、残業が続いた。管理職だったので残業手当は一切つかなかった。

 

ある時、なぜか業務メールを全部削除してしまう。

通勤の電車の中で感情はないのにただただ涙がこぼれていく。

降りるべき駅を通過してしまう。

何をするべきなのかわからない。…うつ病を発症してしまいました。

クリスマスイブに私の2020年振り返り

会社はいくつか変えましたが、新卒から一貫して出張をベースとした仕事をしています。

人と会うことで成り立つ仕事でした。

昨年までは楽しい仕事に没頭でき、これが天職だと思っていました。

 

今年に入りコロナのため業務は100%在宅へシフト

出張も9割以上なくなりました。

 

勤務は外資系会社なので早朝・深夜かまわずメールがきます。

当然、メールは自分で対応する案件ばかりではないのですが、家のPCは朝から晩までつけっ放しでした。

在宅勤務になってから始業、終業の区別ができない毎日を送っていました。

布団に入っても仕事の夢ばかりみて、休まらない状態がずっと続き、徹夜してしまったこともありました。

 

そんなある時、身体が動かなくなり、うつ病が発症(二度目なので再発)してしまいました。

服薬を続けるうちに薬の副作用が少し軽くなり、今では効果もでてきているようなので、Twitterを再開しています。

すでに、有休は使いきりました。

現在、休職中ですが、服薬を続けながら来年の復職を目指しています。

 

休職している間、本を読んだり、経歴の棚卸しをしたりするうちに、これまでの仕事は天職ではなく、命を削る仕事に思えてきました。

 

まずは今の会社に復職することを目指していますが、今後どうなるかはまだわかりません。

幸せのレベル低い

些細なことで落ち込むことが多いけど、

些細なことで喜べることも同じくらいある。

プラマイゼロだ。

 

学生時代、友人に「お前って幸せのレベルが低いな〜w」って言われた、

誉められたんだと思っている。

嫌な気持ちになったら

HSPは、感覚処理感受性が高いので

高感度アンテナで些細な情報を拾い、

嫌な気分になってしまった時は、

好きな情報を拾いにアンテナ張ったらいいと思う。

 

敏感だからすぐに見つかるかも。